国境あちらこちら(2):ポーランド・ロシア国境 その2

国境あちらこちら(1):ポーランド・ロシア国境 その1からの続きです

 

ポーランドといえば、上の左側のようになにやら丸いというか四角いというか、そういう国の形を思い浮かべる方が多いかと思います。そもそもポーランドは、オーストリア・ロシア・プロイセンという軍事強国に何度も「分割」され消滅・復活してきた歴史がありますが、第二次大戦前は右上の青い線で囲まれた(白+ライトブルー部分を併せた)形をしていました。

戦後処理の中でソ連はライトブルーの部分を割譲させ、その見返りにドイツから分捕った黄色の部分を「回復領」としてポーランドに与えたという経緯があります。単純に言い切れば今のポーランドは赤い線で囲まれた地域で「西に移動した」形となります。

そしてそこに住んでいた数百万人に及ぶドイツ人たちは西の方へと「追放(Vertreiben)」されていき、そこにポーランド人が入植したのです。

ちなみにドイツはピンク色の部分を取られた上に、残った黄色の部分を東西ドイツに分割されて、東側はソ連の支配下となるのです。

更に東プロイセンと呼ばれた、一番東のドイツ領の飛び地は南北に分割され南半分をポーランドに(ピンク)、北半分はソ連が占領し(緑)カリーニングラード州とというソ連の軍事基地化の飛び地とするのです。飛び地とは言え、戦後はポーランドや周辺のバルト三国はソ連の支配下だったので、実質的にはソ連の地続きの領土でした。

ドイツは「心の故郷」とでもいうべき東プロイセンを失った上に分割までされ、そこでもっとも繁栄していたケーニヒスベルクをカリーニングラードと改名されてしまうという憂き目に遭うのです。南北朝鮮が将来統一することはあったとしても、ここを復活させて東プロイセンとしてドイツに返還することは絶対にない!・・・そんなソ連の強い意志の表れとされています。

(なおこれ以上は複雑になるので省略しますが、ソ連が割譲させたグレーの部分の南部(Lwowなど)は今日のウクライナ、北部は今日のベラルーシとなり、感情的には子認知でもしこりが残っています)

さて、Gronowoの国境から 5kmほど離れた比較的大きな町 Baniewo(独:Braunsberg)で、軍事施設などではなく教会の写真を撮っていたらいきなり国境警備隊の女性兵士に呼び止められ・・・尋問されてしまいました(笑)

「何をしてるんですか?」「教会の写真を撮っているんです」「何故?」「何故?って・・・いや興味があるからです」「パスポートを見せてください」「はいよ」「日本人なの?」「はい、そうです」「日本人がなんでロシア国境から5kmのこんな町で教会の写真なんか撮ってるの?」「いや、何で?と言われても・・・」(笑)

まあ、そうですよね。怪しいヤツと思われても仕方ないかもしれません。経緯や何故ここに関心があるのかを縷縷説明し、30分ほどかかって無事釈放されました。なかなかイケてる女性兵士だったので「一緒に写真撮ってもいい?」「ダメ!」(笑)そこの車なら遠くから撮ってもいいわよ・・・とのことで撮ったのが上の軍用車両の写真です。うっかり盗撮していたら 30分では済まなかったかも(笑)

しかし・・・それにしても日本人の私が一体なぜこんな場所に興味を持ったのか?それについては次回書くことにします。

国境あちらこちら(3):ポーランド・ロシア国境 その3に続きます。

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