- 2025-6-9
- 日記的備忘録
日本に居ると「国境」というものに出会うチャンスは基本的にありません。川端康成の雪国の冒頭の有名な一説・・・「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」・・・これを「こっきょう」と読むのか「くにざかい」と読むのかについては議論があるようですが、一応「こっきょう」と読むのが定説としても、所詮それは越後の国への「くにざかい」に過ぎないわけです。
一方、ヨーロッパは地続きのなかに主権国家が犇めき、特に大国・軍事強国に接する中小国はその国境の防護に並々ならぬ精力を費やしてきました。中小国同士でもその国境の画定は大国の思惑が絡み、それに翻弄されてきた歴史があります。そしてその国境の両側では政治・経済はいうに及ばず文化的にも思わぬ断層をのぞかせています。一方でなんでここに国境を引いたんだ?と思われるような一体性を感じることもあります。
私はそんな国境の態様が興味深く、ヨーロッパのあちこちの国境を探訪しているという次第です。ここではそんな国境の在り様のほんの一部をご紹介していきたいと思います。
そもそもこれはどこ?右の地図をご覧ください。ロシアのウクライナ侵攻に絡んで時折話題になる「カリーニングラード州(核兵器を貯蔵していると言われる)」ロシアの飛び地があるのですが、そこと国境を接するポーランド側になります(右の地図はクリックすると拡大します)
カリーニングラードというのは戦前のドイツ領時代にはケーニヒスベルク(Königsberg)と呼ばれこの地域の中心都市として栄えていました。
ちなみに地図の上の方にある今のラトビアのクライペダはドイツ領時代にはメーメル(Memel)と呼ばれており、戦前のドイツ国歌では「ここまでがドイツ」と歌われていました。
ここで「Gronowo」が終わりという標識です。1991年の写真です。ゴルバチョフ書記長・大統領時代で、ロシアがウクライナに侵攻するなんて考えられなかった時代です。
ポーランド側の国境警備も緩いとうか、のどかなものでした。この道の先に「ソ連領」があるのです。
ロシアからは小中学生の遠足のバスが来るくらい緊張感が無かった時代です。3人のロシア人は「英語教師」とだそうで、英語が非常に達者でした。ん?ロシア人で英語に堪能?失業したスパイなのでは?(笑)ちなみにこの写真を撮った 1991年 5月時点ではまだ「ソビエト共和国連邦(ソ連)」でした。
この項続きます。