ドイツ放浪記(68):Marienwerder ・・・ドイツ人とは?ポーランド人とは?

ポーランド語の Zamekとは「城」という意味らしいが、標識のドイツ語は博物館(Museum)とある。絵葉書か記念品でも買おうと立ち寄ったら数人のスタッフらしい人達がいた。正面に居たかなり年配の人がアジア人っぽい私を見て「英語ならあそこの若いスタッフが、ドイツ語なら自分が対応するからね」と声をかけてきた。「日本人なんだけどドイツ語は少し話せますよ」「おお、日本から!それは遠くからよく来たね!今日は偶々この博物館の学芸員の Dr.XXXXが来てるよ」・・・と奥の方を指した。

少しばかり世間話をしたあとで「ところで、ドイツ語を話すお客は自分の担当ということは・・・あなたはドイツ人なの?」と訊いてみた。彼は少し困惑した顔をした後、微笑んで「私はこの町で生まれたんだけど、国はいろいろ変わったからねえ・・・」

・・・あ、そうか!この老人は戦前、ここがドイツ帝国領だった時代にここで生まれた。親はドイツ人だったのかポーランド人だったのか、あるいは混血だったのか・・・で、ドイツ語を母語として育ったけれど、ここではポーランド語も必要なので自然に身についていく。大戦末期にはドイツ系住民は追放されたのだが、ここに残ったということはポーランド人としてここに残る権利があったということか

・・・要は、自分はここで生まれ育だち、ここで使われていた言葉を習得したという事実とは別に、自分の住んでいた町が所属する国が「勝手に」変遷した・・・そんな感じなんだろうな。幸か不幸かそういうことが起こらなかった日本本土に居てはなかなか分かり辛い感覚である。

その後、博物館の学芸員という女性とそのスタッフに自己紹介をして、自分が何故ここに興味を持ち、はるばる日本からやってきたか・・・ということを話した。リューネブルクの博物館や「被追放者連盟」でその話をすると「Ich lob Sie!」なんてハグしてくれる老婆もいたくらいなのに・・・ここでは「あら、そうなの」という程度の反応だった。え?なんで?・・・

・・・あ!そうか!・・・自分が見ていた東プロイセンの歴史は「ドイツ人視点」だった。その昔、まだこのあたりがどこの国の領土という概念がなかった時代にドイツ人が東方植民として東に進出し、それを担った十字騎士団がこのあたりを支配した。近代になりそこはドイツ帝国の一部となったが、戦争でそこに住んでいたドイツ系住民は追放されポーランド領になった・・・が、そこから追放された人達やその子孫や、あるいはドイツ人皆が「あの土地はその昔ドイツ人が開拓し、ドイツ領だった」というノスタルジアを抱いている・・・そんな歴史・・・

一方、ここにいる人達は、十字騎士団が西から押しかけてきて、この一帯を支配していた際に「支配されていた側」の末裔ということなんだろう。騎士団は未開の東部のキリスト教化というミッションを負っていて、支配とはいってもこの一帯の先住民たちとの関係が敵対的ということはなかったかもしれない。まあ、しかし支配者であることには変わりはなく、ずっと後になってドイツ帝国時代にはドイツ人が明らかに政治・経済を握っていた。土着のポーランド系の人の歴史観では、そういう「歴史的な支配者としてのドイツ系の連中をやっと追い出してポーランド系住民のものとした」ということになるのかもしれない。

無理を承知で例えるならば・・・ここは長年に亘ってロシア人に支配されていたウクライナで、ようやくロシア人を追い出して自分たちの手に取り戻した・・・そこにロシア語を喋る日本人が訪ねてきて、ロシアが支配していた時代の歴史を語っている・・・そりゃあ違和感あるよね(笑)

ここに来た記念にショップで絵葉書数枚とガイドブックを購入した。「ZAMEK i KATEDRA w KWIDZYNIE」・・・クヴィジンの城と大聖堂・・・町の名前も Marienwerderではなく、ポーランド名で KWIDZYN(クヴィジン)である

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