ドイツ放浪記(100):ウィーンの街歩き(8)

さてこのシンメトリックな巨大な建物は何でしょう?上の写真に写っているのは、下の写真の平面図で、左手に円形の道路が描かれているところを左手から覗いたところである。平面図の赤茶色の部分は建物、白は道路、灰色は中庭を島している。全体像はとてつもなく巨大である。

独語 Wikipediaの「Wohnhausanlage Friedrich-Engels-Platz」の冒頭部分を訳しておくと「フリードリッヒ・エンゲルス広場1~10番地の集合住宅(エンゲルス広場、またはエンゲルスホーフとも呼ばれる)は、ウィーン第 20区ブリギッテナウにある市営の建物で、第一共和制時代の「赤いウィーン」の市営住宅としては、オッタクリンクのサンドライテンホーフに次いで2番目に大きい。この複合施設はウィーン市によって保存地区に指定されている。」とある。

赤いウィーン(Rotes Wien)」?・・・これもまた独語 Wikiの冒頭部分を訳しておこう・・・「オーストリアの首都ウィーンは、1919年から1934年まで、ドイツ・オーストリア社会民主労働党(SDAP)が州議会や市議会の選挙で絶対多数を何度も獲得していた時代には、赤いウィーンと呼ばれていた。この時期の社会民主党の自治体政策は、包括的な社会住宅プロジェクトと、住宅建設に加えて社会・保健・教育政策における広範な改革を支援することを意図した財政政策によって特徴づけられていた。社会民主党は、ウィーンにおけるその地位を通じて、「賃金労働者を犠牲にする政策の無制限な実現に対する封鎖となる力関係」を形成し、当時他の連邦州や連邦レベルを支配していたキリスト教社会党(CS)の政策に対するアンチテーゼとなった。

「赤いウィーン」は1934年、オーストリア内戦の結果、カール・ザイツ市長が罷免・逮捕され、CSから生まれた祖国戦線(VF)もウィーンで政権を握ったことで終焉を迎えた」・・・とある。

ドイツのワイマール共和政で左派が政権を握った時代に対応して、オーストリア・ウィーンでも同様な状況にあった。この時、ウィーンの市当局は富裕層への課税を強化し、それを財源に大規模な労働者向け集合住宅を盛んに建設した、ウィーンはセンサ央による破壊を免れ、また今日も社会主義政権が政権が市政を握っているため、当時の労働者向け集合住宅はメンテされ保存対象に指定されている。

赤いウィーン(Roter Wien)という呼称は「1945年以降、社会民主党がウィーンの市長職と州議会および市議会の過半数を途切れることなく維持しているため、この言葉は、SPÖが支配する市政に対する極論として政敵に使われることもある」・・・とのことである。

こういう社会主義的集合住宅の特徴の一つとして「WASCHSALON(共同洗濯場)」がある

1869年から1884年にかけてドナウ河が規制されるまで、この地域はドナウ河の荒涼とした草原、水、森が特徴で、狩猟や釣りに理想的な場所であった。

1930年から1933年にかけて、ウィーン市は成功した 作家、労働指導者のフリードリッヒ・エンゲルスにちなんでエンゲルスホーフを建設した。


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