ドイツ放浪記(84):Bernauer Strasseから Eberswalder Strasseへ

壁で囲い込まれた西ベルリン(にしべるりん West-Berlin)は 12区からなり、面積 480平方キロメートル(旧ベルリンの54.4%)。 人口は 1945年(戦勝国による分割当時)約230万、85年 185万 2700人であった。今話題のガザ地区は、面積は365平方km。 種子島とほぼ同じ大きさで、東京23区の面積の6割ほどで人口約 200万人・・・規模で比較するなら「まあ似たようなもの」といえるかもしれない。が、決定的に異なるのは、「壁によって囲い込まれた西ベルリン」の中の方が、その壁の外側の世界より遥かに豊かで自由だったことであろう。

前回ご紹介した Bernauer Strasseは、上の地図の赤丸で囲った中の「緩く右カーブをしている部分」である。この道を壁に沿って歩くと突然行き止まりになる。地図で分かるように、壁がそこで 90度左に折れる形で北北東に延びているからである。当時、西ベルリンの路面電車も、この壁で阻まれた部分が終点・折り返し地点となっていた。

上の写真で、右手にある建物の窓が白く埋められているのが見て取れるだろう。これは東独政府によって窓が煉瓦で塞がれたものである。その後この建物全体が破壊・撤去され、そこには壁と無人地帯が造られた。それが前回ご紹介した記念公園となっている場所である。

壁の向こうの建物の窓は塞がれていないのは、そこは東ベルリンだったからである。この通り Bernauer Strasseは、壁の向こうあたりから Eberswalder Strasseと名前が変わり、その先の Sバーンの駅「Eberswalder Strasse」の先は Danziger Strasseと名前が変わる。

今は壁も無くなり、件の Eberswalder Strasseはこんな感じである。遠くに Sバーンの高架が見える。その左手が駅である。実は私の娘は、ベルリンに遊学中は黄色の路面電車の左手にある建物群(赤い建物の手前)の一角に住んでいた。戦災は免れて残った戦前の建物だが、壁崩壊のあと、西側の資本家が買い取ってリノベーションし、アパートとして貸し出していたのだ。一度中に入ったことがあるが、戦前の仕様で天井が高く、学生が住むには贅沢な部屋で、娘が帰国後は自分で住んでみたいとさえ思ったことがある。

夏になるとワイン屋の店先にはロゼが並ぶ。自分にとっては、日本酒に青いボトルの「夏酒」があるように、ピンク色のロゼワインは小難しい蘊蓄も不要で気楽に呑める夏ワインなのである。

Eberswalder Strasseの駅・・・その下には「Konnopke’s Imbiss」という老舗のソーセージスタンドがある。ここは 1960年に旧東独に初めて「カリーヴルスト」を紹介した店として有名である。

↑↑ これは普通の Bratwurst・・・私は日ごろの行いが悪いせいか、ここで Currywurstを注文するといつも売り切れている(涙)またこの店は創業時からの営業時間を護っており、夕方の書き入れ時も儲かるからと言って営業時間を延長したりしない。

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