ドイツ放浪記(61):社会主義時代の名残り・・・と思ったら違った・・・しかし・・・

ドイツの場合は、旧西独というレファレンスがあるので、旧東独で戦後に建てられた社会主義様式の建物やモニュメントは割と分かり易い。そういうのを探して歩く Spurensuche(痕跡探し)などという企画もあったりするし、個人的にもよくやっている。が、ポーランドとなると「使用前」「使用後」みたいな比較ができないのでちょっと難しい。

でもまあ、駅から伸びる大通りに面した建物・・・「CENTRUM BIZNESU」というのがちょっと微笑ましい建物にあるコレは社会主義時代に造られたものと見て間違いはないだろう。様々な職種の労働者のレリーフが建物の支柱に埋め込まれている。

・・・と思ったら、ポーランド語の解説には「1938年のレリーフは、クルト・シュヴェルトフェーガー(Kurt Schwerdtfeger)によるもの。ビジネスセンター(旧ポメラニア銀行支店)の柱を飾っている。レリーフには、レンガ職人、漁師、収穫の農民、工業労働者など、さまざまな職業の人々が描かれている。

レンガ職人を描いたレリーフの一番下には、クルト・シュヴェルトフェーガーのサインがある。この作品は、筋骨隆々の労働者をモチーフにドイツの権力を誇示しようとした第三帝国の美術の潮流に完全に合致していた」・・・おお、なんと第三帝国時代のものだったのか!

確かに第三帝国では Arno Brekerを初め、筋骨隆々とした男性の裸像(右の写真は Arno Brekerの作品)や優美な曲線美を強調した女性の裸像などが盛んに制作された。Kurt Schwerdtfegerもそういう時流に乗った芸術家・彫刻家の一人だったというコトなんだろう。

しか~し!Kurt Schwerdtfegerを独語 Wikipediaで調べてみると意外なことが書いてある。全文はリンク先(独語)をご参照願うとして、「ケーニヒスベルク大学とイエナ大学で哲学と美術史を学び、1920年から1924年までワイマールのバウハウスで学ぶ。

そこで1922年から1923年にかけて、ルートヴィヒ・ヒルシュフェルト=マックとともに、20世紀の空間芸術の概念を変え、1920年代の抽象映画的前衛の一例であり、エクスパンデッド・シネマの先駆けともいえる作品『Reflektorische Farbenlichtspielen(反射する色彩の光の遊び)』を制作した」「1925年、シュチェチン美術工芸学校の教師となり、彫刻クラスを担当。

1937年には教職を解かれ、ナチスの「退廃芸術」キャンペーンの一環として、シュチェチンの美術工芸博物館とヴォルムスの市立絵画館から3点の作品が没収された[3]。1939年から1945年まで彫刻家として活躍

・・・え?バウハウス?え?退廃芸術Entartete Kunst)として作品を没収された?

ナチスが迫害したバウハウスに学び、その作品には「退廃芸術」との烙印を押され、没収され教職からも追われた人物が「筋骨隆々の労働者をモチーフにドイツの権力を誇示しようとした第三帝国の美術の潮流に完全に合致していた」作品を生み出した?なんか変じゃね?バウハウス時代の『Reflektorische Farbenlichtspielen(反射する色彩の光のゲーム)』という実験的で繊細な作風とも全く別物に思えるけど・・・

・・・この矛盾というか謎を解くカギとなる解説をポーランド語のサイトに発見したので、それを DeepL翻訳させてみた。

コシャリンの謎のレリーフ。誰もが知っているが、いつ作られたかはほとんど誰も知らない

コシャリンの住民で、ズヴィチエストワ通りにある旧銀行の建物の影の下を歩いたことがない人はいないだろう。その通りを通ると、四方の壁に大きなレリーフが施された巨大な柱を必ず通り過ぎる。どこから来たのだろう?

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ピョートル・ポレチョンスキ2023年1月17日 17:05

現存する4つのレリーフは、戦前にシュチェチンで活躍していたドイツ人彫刻家・教育者のクルト・シュヴェルトフェーガーが1938年に制作したものである。シュベルトフェーガーは1897年、スワヴィエニスキ県のポドゴルキ村に生まれた。第一次世界大戦中、志願兵として軍隊に入り、戦争に参加した。1919年、ケーニヒスベルクとイエナの大学で美術史と哲学を学び始める。しかし、わずか1年で興味を変えた。理論ではなく、実践に目を向けることにしたのだ。彫刻家になりたかったのである。

– そこで1920年から1924年まで、ワイマールの有名なバウハウスで美術を学んだ。そこではワシリー・カンディンスキー、ヨハネス・イッテン、オスカー・シュレンマーらが師事した。この優れた改革主義の環境が、彼を芸術家としてだけでなく理論家としても形成したのである。「したがって、シュヴェルトフェーガーが1925年にシュチェチンの美術工芸学校で彫刻クラスの担任を引き受けたのは当然のことでした」と、コシャリン美術館の学芸員であるクリスティナ・リプニェフスカは言う。

当時、クルト・シュヴェルトフェーガーは、メトロポリタン美術館で開催された「ベルリン分離派」の展覧会「ノヴェンバーグルッペ」に参加していた。クルト・シュヴェルトフェーガーは、ニューヨークのメトロポリタン美術館、シュチェチン、ベルリンやパリの多くのギャラリーなどで展覧会を開催した。彼の作品は、シュチェチンやグダンスクを含むポメラニア地方の公共建築物を飾った。1937年、「退廃芸術」との戦いの一環として、彼はナチスによって教師を解任され、作品は美術館から撤去され、ついには作品の展示も禁止された。その直後の1939年、画家は国防軍に徴兵され、第二次世界大戦に参加した。

戦後、彼はアルフェルトの高等教育学校で教育活動を続けた。ここで、多くの世代の教師のためのハンドブックとなった革新的な著書『美術と学校』が執筆された。彼はまた、石、ブロンズ、粘土、コンクリートなどさまざまな素材を用いて、人物、ヌード、肖像画、動物のシルエットなど、さまざまなテーマの彫刻作品を制作した。1966年、ヒルデスハイムで死去。

コシャリンのレリーフは、彼の人生で最も困難な時期に制作された。職を奪われ、公的な要因によって非難されながらも、彼はこの作品の制作を依頼された。ナチス政権下の芸術家たちは、それでも創作を続け、作品を展示した。しかし、彼らは一定の譲歩をしなければならなかった。

「現在もコシャリンに保存されているレリーフも、一種の譲歩と見るべきでしょう」

シュチェチンの投資家たち(ポメラニア銀行はシュチェチンに本店を置き、コシャリン銀行はその支店だった)は、シュチェチンの有名な芸術家であるクルト・シュヴェルトフェーガーに、近代的な建物に一風変わった芸術的な形を与えようと持ちかけた。それはまた、芸術家への支援のジェスチャーであったかもしれない。

– 作品の主題は、一方では銀行の活動範囲を象徴し、他方ではコシャリンとその地域の繁栄の4つの源、すなわち農業、漁業、工芸品、工業を象徴している。それぞれのレリーフには、煉瓦職人、漁師、収穫の農民、工場労働者など、さまざまな職業の人々の日々の仕事が描かれている。このレリーフのテーマは、農民や労働者というモチーフの活用に熱心だった第三帝国の公式美術の傾向と完全に一致していた。ところで、ここでは、彼らは予想通り、筋肉質で弾力性のある身体で描かれていた。戦後、コシャリンのレリーフは、労働者と農民の同盟というテーマにふさわしい社会主義リアリズムとして解釈されることもあった。「このような理由から、コシャリンに今日まで保存されている彫刻家の作品は、戦後も破壊されなかったのでしょう」とクリスティナ・リュプニェフスカは結論として言う。

旧ポーランド国立銀行の建物は、シュチェチンの建築家グレゴール・ローゼンバウアーの設計により 1936年から1938年にかけて建設されたもので、モダニズム建築の一例である。当初から 1945年まで、シュチェチンのポメラニア銀行支店の本部として使用された。1945年にはソ連戦争司令部が置かれた。1947年以降、再び銀行としての機能を果たす。現在は、ビジネスセンターとオクロニー・シロドヴィスカ銀行の所在地である。

要約すれば「ナチスに目をつけられ、職を追われ展示作品を没収までされた高名な芸術家が、時代を生き延びるため、また高名な芸術家を支援するというパトロン達にも支えられて「ナチス=国家社会主義ドイツ労働者党」に妥協的な作風で力強い労働者たちを描いたレリーフを制作した。

戦後、社会主義体制となり多くのナチス好みの「芸術品」は逆に破壊されたり没収されたりしたが、逞しい労働者を描いた作品が社会主義のイデオロギーと合致し生き延びることになった・・・ということになるだろうか。一方で一般のポーランド人の目には「筋骨隆々の労働者をモチーフにドイツの権力を誇示しようとした第三帝国の美術の潮流に完全に合致していた」と映るのである。

・・・こんなレリーフの背景にも複雑な時代の背景がある・・・なんてありきたりなオチをつけておこう(笑)

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