- 2023-8-21
- 日記的備忘録
ドイツの場合は、旧西独というレファレンスがあるので、旧東独で戦後に建てられた社会主義様式の建物やモニュメントは割と分かり易い。そういうのを探して歩く Spurensuche(痕跡探し)などという企画もあったりするし、個人的にもよくやっている。が、ポーランドとなると「使用前」「使用後」みたいな比較ができないのでちょっと難しい。
でもまあ、駅から伸びる大通りに面した建物・・・「CENTRUM BIZNESU」というのがちょっと微笑ましい建物にあるコレは社会主義時代に造られたものと見て間違いはないだろう。様々な職種の労働者のレリーフが建物の支柱に埋め込まれている。
・・・と思ったら、ポーランド語の解説には「1938年のレリーフは、クルト・シュヴェルトフェーガー(Kurt Schwerdtfeger)によるもの。ビジネスセンター(旧ポメラニア銀行支店)の柱を飾っている。レリーフには、レンガ職人、漁師、収穫の農民、工業労働者など、さまざまな職業の人々が描かれている。
レンガ職人を描いたレリーフの一番下には、クルト・シュヴェルトフェーガーのサインがある。この作品は、筋骨隆々の労働者をモチーフにドイツの権力を誇示しようとした第三帝国の美術の潮流に完全に合致していた」・・・おお、なんと第三帝国時代のものだったのか!
確かに第三帝国では Arno Brekerを初め、筋骨隆々とした男性の裸像(右の写真は Arno Brekerの作品)や優美な曲線美を強調した女性の裸像などが盛んに制作された。Kurt Schwerdtfegerもそういう時流に乗った芸術家・彫刻家の一人だったというコトなんだろう。
しか~し!Kurt Schwerdtfegerを独語 Wikipediaで調べてみると意外なことが書いてある。全文はリンク先(独語)をご参照願うとして、「ケーニヒスベルク大学とイエナ大学で哲学と美術史を学び、1920年から1924年までワイマールのバウハウスで学ぶ。
そこで1922年から1923年にかけて、ルートヴィヒ・ヒルシュフェルト=マックとともに、20世紀の空間芸術の概念を変え、1920年代の抽象映画的前衛の一例であり、エクスパンデッド・シネマの先駆けともいえる作品『Reflektorische Farbenlichtspielen(反射する色彩の光の遊び)』を制作した」「1925年、シュチェチン美術工芸学校の教師となり、彫刻クラスを担当。
1937年には教職を解かれ、ナチスの「退廃芸術」キャンペーンの一環として、シュチェチンの美術工芸博物館とヴォルムスの市立絵画館から3点の作品が没収された[3]。1939年から1945年まで彫刻家として活躍」
・・・え?バウハウス?え?退廃芸術(Entartete Kunst)として作品を没収された?
ナチスが迫害したバウハウスに学び、その作品には「退廃芸術」との烙印を押され、没収され教職からも追われた人物が「筋骨隆々の労働者をモチーフにドイツの権力を誇示しようとした第三帝国の美術の潮流に完全に合致していた」作品を生み出した?なんか変じゃね?バウハウス時代の『Reflektorische Farbenlichtspielen(反射する色彩の光のゲーム)』という実験的で繊細な作風とも全く別物に思えるけど・・・
・・・この矛盾というか謎を解くカギとなる解説をポーランド語のサイトに発見したので、それを DeepL翻訳させてみた。
コシャリンの謎のレリーフ。誰もが知っているが、いつ作られたかはほとんど誰も知らない
コシャリンの住民で、ズヴィチエストワ通りにある旧銀行の建物の影の下を歩いたことがない人はいないだろう。その通りを通ると、四方の壁に大きなレリーフが施された巨大な柱を必ず通り過ぎる。どこから来たのだろう?
要約すれば「ナチスに目をつけられ、職を追われ展示作品を没収までされた高名な芸術家が、時代を生き延びるため、また高名な芸術家を支援するというパトロン達にも支えられて「ナチス=国家社会主義ドイツ労働者党」に妥協的な作風で力強い労働者たちを描いたレリーフを制作した。
戦後、社会主義体制となり多くのナチス好みの「芸術品」は逆に破壊されたり没収されたりしたが、逞しい労働者を描いた作品が社会主義のイデオロギーと合致し生き延びることになった・・・ということになるだろうか。一方で一般のポーランド人の目には「筋骨隆々の労働者をモチーフにドイツの権力を誇示しようとした第三帝国の美術の潮流に完全に合致していた」と映るのである。
・・・こんなレリーフの背景にも複雑な時代の背景がある・・・なんてありきたりなオチをつけておこう(笑)